(almost) daily corleonis

2024.10.25 Fri.

隣の部屋の人の話し声で目が覚める。その後何度も二度寝を試みるも失敗。チェックアウトして近くの喫茶店へモーニングへ。昭和の懐かしい店構えで、店内には常連客が数人いた。テレビのワイドショーと昭和歌謡が重複して聴こえる店内で、美味しいコーヒーとバタートーストをいただく。常連客の方たちの地元トークがおもしろく、ちょっと盗み聞きしつつ朝の時間を楽しんだ。

地域の小学生が描いた絵がかわいらしい

魚好きの連れ合いが、「イトヨの里」というイトヨの保護や水環境の保全啓発を目的とした学習施設へ行きたいというので向かってみる。客はわたしたちだけだったが、施設の方がとても良くしてくださった。イトヨを観察し、トゲウオたちについて知識を深める。

その後鯖江へ向かい、めがねミュージア厶や商店街を散歩。鯖江駅は「サンダーバード」や「しらさぎ」などの特急列車が止まらなくなってしまい、新幹線駅からも外れていることから閑散としてしまっていると立ち寄った書店の方に伺った。昼食はその人におすすめしてもらった国道8号線沿いにある中華そばの店で煮干し鶏の塩ラーメンを食べる。

本日の宿泊地、かつこの旅の最終地点でもある敦賀へ。海沿いを少し散歩してからホテルへチェックインする。荷物をおろしベッドに腰掛けたと思ったら、そのまま1時間ほど眠ってしまった。旅行中、夕飯を食べに向かう前にエネルギーを蓄えるべく少しだけ寝る時間が好きだ(海外旅行では特に必須)。

敦賀駅前にある「ちえなみき」という公設民営という変わったスタイルの書店へ。図書館のような本棚に近く、好奇心を刺激されるようなラインナップだった。この日はマルクス・アウレーリウス著「自省録」の読書会的なイベントが行われていて、老若男女が集まっている(地域の人たちがこの場所をハブにしている)様子にちょっと感動してしまった。この旅ではここまで特に何も購入していなかったが、見事に1万円を落としてしまった。わたしは荒川洋治「文学は実学である」など、連れ合いはフランスに関する書籍を数冊お買い上げ。重くなったトートバッグを肩にかけ、夕食を食べに街へ繰り出す。

せっかく福井に来たもののまだ海鮮を食べていなかったので、刺身が美味しそうな居酒屋へ。冷奴、刺身盛り合わせ(カツオやサーモン、ヒラマサ、タイなど)、タイのあら炊き、ふぐの唐揚げを日本酒とともにいただく。

夜の街を散歩して、〆に屋台のラーメンを食す。「ごんちゃん」というこの店はとても繁盛していて、ひっきりなしに人が入っていた。相席で前の人と膝を付け合わせながら食事をするのは、さながら台湾の夜市のようだ。明日は最終日で、すでに少し切ない。しかしそれも旅の良さであり、またどこかへ行きたいと思わせるのであった。

最終日へつづく。

2024.10.24 Thu.

今日は入社してから初めての有給休暇。仕事のペースも掴めつつあり、メンバー皆自由に有給を取得していく様子を見て、後ろめたさを感じることなく申請することができた。朝5時半起床、6時出発。車で福井へ向かう。

ちょうど7時をまわったころ、松本で高速を降りる。駅前にある「珈琲美学アベ」でモーニング。開店直後だというのに瞬く間に満席に。コーヒーとバタートースト、スクランブルエッグ、ベーコンを注文。食器やカップの「ABE」の文字がかわいらしい。まわりに座っている人も観光客やサラリーマンなどそれぞれで、忙しい朝の時間にここでエネルギーをチャージしているように見えた。

また車に乗り込んで、高山で途中下車。朝市や土産物屋を巡る。何よりの驚きは欧米人の多さ。熱心に説明を聞いたり、伝統工芸品を物色したりしている。京都は言わずもがな、最近は松本あたりでも多いと思っていたが、飛騨高山までこんなに多いとは。観光客向けの通りを少し歩いてみるも既視感がありすぎてあまり楽しめなかったが、ちょっと外れた通りを歩いてみると面白い看板や建物があったりして、「こっちこっち!」となった。

紅葉を楽しみながら車を進め、福井に到着。福井の名物はおろしそばとソースカツ丼という情報を聞いていたので、早速チャレンジ。大根おろしが入ったつゆを上からかけるスタイルだった。「どうせき」とはどういう意味なのかと思っていたら、お店に飾ってあった賞状に「道関〇〇」と書いてあり、名前なのか!と腑に落ちた。

本日のメインイベント、福井県立恐竜博物館へ。常設展示だけでもものすごいボリュームで少しおののく。恐竜の他にも大陸、植物、虫や魚などの生き物の歴史に関する展示もあり(実は恐竜の歴史にそれぞれ深く結びついている)とても興味深かった。今まで少しファンタジーのように思っていたが、本当にこの世界にかつて存在していたのだと強く感じた。

恐竜の全身骨格が多く展示されていて、ほとんどが複製なもののいくつか実物もあり、その存在感は圧倒的だった。現在開催中の特別展「バッドランドの恐竜たち」ではティラノサウルスの実物頭骨が展示されていた。化石になる過程で地層にあるマンガンを取り込んだことで真っ黒になっていることから、「ブラックビューティー」という愛称がついているらしい(すごかった!)。

これが本物のフィールドノート…!

閉館ギリギリまで3時間ほど歩き続けクタクタに。ホテルにチェックインしてから、近くにある居酒屋へ。ビール、日本酒、さんま、チャンジャ、焼き鳥、おでん、ハタハタの唐揚げ、焼きおにぎりを平らげてお腹いっぱいになったにもかかわらず、お会計は2人で4,000円であった。旅先で飲食店へ行くたびに、ここに来るのは人生で最後かもしれない、と思ってしまう。店の壁に貼ってあるスポーツ選手のポスターを見ながら、この夜も同じことを考えていた。

2日目へつづく。

2024.10.17 Thu.

わたしが住んでいる地域は馬のまちとして知られ、自分の毎日の散歩コースにも乗馬クラブが複数ある。厩舎の窓から馬の顔が見えると嬉しいが、冬になるとその窓もすべて閉められてしまい、なかなか見ることが叶わなくなる。たまに乗馬をしている人もいるが、毎日必ず見かけるわけではない。

去年、自宅から徒歩2、3分の場所に新しい家が建てられた。広い庭が印象的で、今年になってそこに大きな柵が設置された。地面は土のままで、あまりの広さに「一体何に使うのだろう?」と疑問に思っていた。まわりに生えていた大量の木も伐採され、着々と何かの準備が整えられていっているようだった。

先日その家の前を通りかかると、信じられないくらい美しい馬が柵の中を軽快に歩いていた。夕陽のきれいさもあいまって、まるで映画のワンシーンのようだった。入念な準備はこの馬を迎え入れるためにあったのか。しかし馬が入れそうな小屋は見当たらず、さすがにここで飼われているわけではないかと思い、その場をあとにした。

次の日の朝、気になってもう一度その家の前を通ってみると、どこからか馬がひょこっと顔を出しているのが見えた。家だ。家の一部が小屋になっているのだ。よく見ると玄関の横あたりに小屋が内蔵されているようなつくりになっていて、馬と一緒に暮らすために建てられたことがうかがえる。

毎日のルーティーンの中に、「散歩のときに馬をチェックする」が加わった。あの美しい馬を毎日見ることができるのかと思うと、また一段と今の暮らしが好きになった。

2024.10.07 Mon.

日記ではなく、最近観たもの読んだもの

■Netflix『ボーイフレンド』観た

観終わってからずっと有志がつくった解釈一致プレイリストを聴いていて、まだ夏が終わらない感じがする。"The Boyfriend"というタイトルだが、そこにあるのは恋愛だけではなく、友情とか仲間意識とか、さまざまな形の人間関係や感情が含まれている。Netflixの公式Youtubeチャンネルで、彼らのセクシュアリティの話なども展開されていて、このあたりも拾ってこそピースが揃う感じがした。

■Netflix『極悪女王』観た

全女の話はなんとなく耳にしたことがあるものの詳しくは知らず、ヒールと呼ばれる存在がこんなにも孤高で苦しいものなのかと衝撃を受けた。それでもわたしも当時観ていたとしたら、迷わずクラッシュギャルズを応援していたであろう。

唐田えりかさん、良かった。ノンフィクションで結果は決まっているのだとわかっていても、つい頑張れと応援したくなってしまうのは彼女があの映像の中でまぎれもなく「スター」だったからだと思う。

■遠藤周作「深い河」読んだ

読み終わってからレビューや映像などを漁る手が止まらない。その数も計り知れず、何度も重版され、長い間読まれていた作品なのだということが伺い知れる。誰かと語り合いたくなってしまうというのは良い作品の指標だと思うが、本作も大いにそれを満たしている(今、誰も話してくれないけど…)。30年前の映画版キャストを見て、「うわ、わかる〜!」となってしまうのが面白い。今日公開された原作ありの映画で、30年後に同じようなリアクションがあるのだろうか。

美津子が大津に固執していた理由は、自身に空虚感を感じていたからだと思う。神(玉ねぎ)を信じて疑わない大津のことが羨ましかったのだと。

2024.09.21 Sat.

永井玲衣『水中の哲学者たち』読了。連れ合い(哲学科卒)が購入してずっと読んでみたいと思っていたのだが、「哲学」という言葉の取っ付きにくさからなんとなく敬遠してしまっていた。読み始めてみると想像していた内容とは違って、自分の身の回りに近い話で、ぐいぐい読み進めてしまった。以下の文章が特に好きだ。

ある哲学者は、哲学することの根源は「驚異と懐疑と喪失の意識」であると言った。
人は、びっくりしたりつらいことがあったりすると、「なんで?」と自然に問うてしまう。 要するに、「は?(驚異)マジで?(懐疑)つら(喪失)」から哲学は始まるのだ。(「爆発を待つわたしたちの日常について」より引用)

小学生と哲学対話を行うと、子どもたちが考えたい問いとして一番に挙がるのはいつも「生きる意味」なのだそう。「死んだらどうなるのか」といったテーマの対話についても記されていた。どうして他者の人生を生きれないのか、ノストラダムスの大予言への畏怖、死後の世界はあるのか、確かに小学生くらいのときはよく生死にまつわることを考えたり怯えたりしていたような気がする。わたしの場合、飼っていた犬が亡くなった途端に死ぬことが怖くなくなった。死んだ後に何かあるなんてことは考えていないし、どのような手順を踏むのかは予想もつかないが、最終的には同じ場所にいけるのだと漠然と信じている。

七年ほど前に祖母が亡くなる前、死んだらお棺に祖母の父(わたしからすると曽祖父)・母・弟の写真を入れて一緒に燃やしてくれと言われた。向こうで会えるように、と。「じいちゃん(夫)のは?」と聞くと、要らないと言われた。その真意はなんとなく聞くことができなかった。葬式のとき、お棺に入った写真で初めて自分の曽祖父母の顔を知った。再会はできただろうか。上手くいったならわたしも犬の写真を印刷しておくので教えて欲しい。

続いて、連れ合いの部屋にあった遠藤周作『深い河』を読み始めた。まだ序盤なのだが、こちらも「死」が大きなテーマとしてあり、『水中の哲学者たち』を読みながら考えていたことの続きのようですっと入ることができた。